第6回 壁画の主題「聖十字架物語」

 壁画の主題である「聖十字架物語」はキリストが磔刑に処せられた十字架の木が主役の伝説で、旧約聖書のエデンの園から始まり、7世紀の東ローマ皇帝ヘラクリウスの時代に及ぶ壮大な歴史的長編ドラマです。ちなみに、聖十字架はイタリア語で「サンタ・クローチェ」ですから、それだけでも「聖十字架物語」の壁画が同じ名前をもつ教会にとって、どれほど重要な意味をもっていたかがわかるでしょう。その内容は13世紀にジェノヴァの大司教であったヤコポ・ダ・ヴァラジネ(1230頃〜98年)によって集大成された『黄金伝説』(Legenda Aurea)に収められています。しかし、『黄金伝説』中に「聖十字架物語」と題されて収められているわけではなく、実際には「聖十字架の発見」と「聖十字架称賛」の2章に分けて、13世紀までにヨーロッパに伝えられていた多くの聖十字架に関する諸伝が紹介されています。『黄金伝説』に基づいて描かれたアーニョロ・ガッディの壁画を読むにあたって、まず「聖十字架物語」の荒筋を知っておいてほしいと思います。物語の詳細が問題になるのは、壁画に描かれている個々の場面やモティーフがどんな意味をもち、この壁画連作が全体としてどのような主題表現を意図して制作されたのかという図像学的な研究に入るときですから、そのときにはあらためて原典を忠実に読みながら絵解きの作業をすることにしましょう。

「聖十字架物語」

 最初の人間であるアダムの犯した罪(原罪)によって生じた罰としての「死」が、初めて人間に訪れようとしています。アダムの息子セツはエデンの園に赴き、大天使ミカエルから一本の木の枝を与えられ、「この小枝が実をつければ、あなたの父は、健康なからだにもどるでしょう」と言われました。セツは急いで持ち帰って父を救おうとしますが、時すでに遅く、すでにアダムは息を引き取った後でした。父の墓の上に植えられた木の枝は立派に成長し、ソロモン王の時代になって神殿建設用の木材として使われることになりますが、どうしても寸法が合わず、橋として利用されました。


「アダムの死」

「シバの女王の跪拝」

 賢者としての誉れ高かったソロモン王を訪ねてきたシバの女王が、その橋の前に立ったとき、霊感によって、女王は橋に使われている木が「救世主を殺す木」となることを予見し、跪いて礼拝します。謁見の際にシバの女王から忠告を受けたソロモン王は、その木を地中深く埋めるよう命じました。

 しかし、長い時代が流れ、そのことは人々の記憶から忘れ去られてしまいました。ちょうど木を埋めた場所に、神殿に捧げた犠牲獣を洗う池が掘られることになったからです。池を掘っていると、水が吹き上げてきて、それが万病に効く霊水だということがわかりました。そして、キリストの受難が近づいたころ、その木がひとりでに浮かび上がってきたのです。その木でキリスト磔刑の十字架が作られたことは言うまでもありません。こうして、キリストの死と、死からの復活によって、人間の救済が約束されることになりました。


「池から浮上する木」と「十字架づくり」

「十字架の発見と検証」

 4世紀の初め、ローマ帝国の統治権をめぐってコンスタンティヌスがマクセンティウスと雌雄を決するミルヴィオ橋の戦いで、天使からの夢のお告げ通りに、コンスタンティヌスは「十字架」の印を掲げて奇蹟的に勝利します。新皇帝となったコンスタンティヌスはキリスト教を公認し、熱心なキリスト教徒であった彼の母ヘレナはエルサレムを巡礼し、苦労の末に十字架を発見しました。しかし、ゴルゴタの丘で発見された三本の十字架のどれがキリストの十字架であるかわからなかったので、ちょうど通りかかった葬列の上にかざすと、最後の十字架で死者が蘇り、真の「聖十字架」が判明したのです。


「十字架をエルサレムに持ち帰る聖女ヘレナ」

 再び3世紀ほどの歳月が流れた614年のこと、ササン朝のペルシア王ホスロー2世がエルサレムを攻め、聖十字架は異教徒の手に奪われてしまいます。ホスロー2世はこけおどしの神殿に鎮座し、キリストの十字架を自分の横に置き、臣下の者たちに自分を神と呼ぶように命じました。628年、東ローマ皇帝ヘラクリウスは大軍を率いて進撃し、最後にホスロー2世の息子と一騎打ちをして勝利を収めます。皇帝ヘラクリウスはホスローに「洗礼を受けてキリスト教に改宗するなら、命だけは助ける。」という条件を出しますが、ホスローが応じなかったので、剣で彼の首をはねました。


「略奪される十字架」

「神のごとく振る舞うホスロー2世」と「皇帝ヘラクリウスの一騎打ち」

 聖十字架を奪還した皇帝ヘラクリウスが聖十字架をエルサレムに返そうと、凱旋将軍として華々しく城門に近づいたとき、突然に城門の石が崩れ、行く手を阻むではありませんか。戸惑う皇帝ヘラクリウスの上に天使が現れて、「主イエスがかつてこの門を通ってご受難の場所におもむかれたときは、つつましくロバに乗っておられ、きらびやかな盛衣などお召しになっていませんでした。」と告げます。この天使の言葉を聞いた皇帝は、豪華に飾り立てた愛馬から下りて靴を脱ぎ、肌衣となって謙虚に聖十字架を掲げると、城門は元に戻って開かれ、エルサレム市民の歓呼の声に迎えられました。


「ホスロー2世の斬首」と「皇帝ヘラクリウスのエルサレム凱旋」

調査レポート 《壁画面の調査が順調に進行》

 前回の調査レポートに引き続き、今回も現在進行中の壁画面の調査内容を具体的に紹介しましょう。


紙を膠で貼って剥落を防止する

剥落防止の応急処置

膠の湯煎

 まずは修復研究所の4人の修復士たちが分担して実施している「目による画面の状況確認」という作業ですが、その際に剥離や剥落がひどく、応急処置が必要な壁面には、傷口にバンドエイドを貼るように、小さく切った紙を慎重に貼っていきます。この際には8%の膠を湯煎したものにグリセリンを少し加えた接着剤を用います。本格的な修復作業に入る前に、足場の振動などで壁面の一部が剥落してしまわないようにするためです。ことにステンドグラスの窓の周囲には、かなり深刻な亀裂が走っており、壁画面だけでなく、ステンドグラスの枠石もボロボロになって崩れかけています。このような大礼拝堂の建築構造そのものの損傷や耐久性の低下については、今後の専門調査に委ねるしかありませんが、現段階では、まず全壁画面のクリーニングが終了する2年後くらいに、将来に向けての「壁画保存」という観点から保存計画が検討され、具体的対応が検討される予定です。ちょうどサンタ・クローチェ教会の外壁補修が同時進行しており、大礼拝堂の外側にも高い足場が組まれていますから、必要に応じて外壁からの調査や補修も容易にできる状況にあることは幸いだと思います。私も先日、大礼拝堂の外壁補修のための足場に上り、屋根上まで見てきましたが、700年前に石を積み上げて建設した人々の姿が想像され、恐怖と感動の入り交じった時間を過ごしてきました。


調査中の修復士マリアローザ・ランフランキ

調査中の修復士アルベルト・フェリーチ

壁面調査のチェックリスト
 
 

大礼拝堂の外壁

外壁を調査する筆者

 さて、4人の修復士たちの作業ですが、これまでの経験や現場でのミーティングで、この壁画調査のための共通チェック項目とそれぞれの項目に対応する記入法が20ほど決められました。しかし、画面によっては固有のチェック項目が必要で、おそらく現在では4人の分を総合すると、30〜40に達しているでしょう。このチェック項目にしたがって、壁画面を丹念に調査し、各画面の輪郭だけをトレースした図面に、ジョルナータの分割を記入すると同時に、色鉛筆を使って「診断地図」を作成していくわけです。さらに、特殊な状況に対する所見については、地図の欄外に短いコメントを書き入れます。主なチェックリストの項目は次のようなものです。

 

現地レポート 《異常気象のフィレンツェで迎えたクリスマスと正月》


増水したアルノ川

クリスマスツリーの飾られた共和国広場

イルミネーションで飾られたカルツァイウォーリ通り

 秋からずっとヨーロッパは異常気象に見舞われていますが、ここフィレンツェでも例外ではありません。とくに今年は秋が短く、10月から冬のような寒さに襲われました。にもかかわらず、法律で集中暖房の開始は11月からと定められているため、部屋の中でもコートを着ているような始末でした。修復現場の大礼拝堂内の気温もぐんぐん下がり、それまで猛暑にさらされていた体がついていけず、本格的な冬の到来をみなで心配したものです。たまりかねて、私は自分の部屋に電気ストーブを購入しましたが、修復現場にも暖房装置を取り付けることが決まりました。その後しばらくして寒さは弱まったものの、今度は毎日が雨の連続で、イタリア自慢の青空はどこへ行ったのだろうと、恨めしい思いで空を見上げる日が続きます。ジャーナリズムは1966年11月4日の忌まわしい大洪水の惨禍からちょうど40年を迎えるということもあって「フィレンツェに再び大洪水か」ということばかりを話題にするので、市民たちはみな不安に駆られたものでした。たしかにアルノ川の水位はぐんぐん上昇し、一時はヴェッキオ橋の橋桁が轟々と渦巻く濁流ですっかり隠れてしまったことさえありました。

 各地で洪水や土砂崩れの災害が続く中、幸いなことにフィレンツェは辛うじて難を免れたという感じで12月を迎えましたが、冷え込みの厳しさは相変わらずで、大礼拝堂の足場の上に設置された寒暖計は日中でも7度という寒さです。修復研究所の外で仕事をすることに慣れた壁画修復士のマリアローザやアルベルトたちも、さすがに音を上げて、鼻水をすすりながら定期的に熱いカップッチーノを飲みに出掛けてゆくようになりました。暖房装置の取り付けが完了し、足場の6階から上が透明ビニールの保温シートで覆われたのは、クリスマスも過ぎた12月28日のことです。


修復現場に設置される暖房設備

保温のために6階から上がシートで覆われた足場

 さて、工事現場のようなサンタ・クローチェ教会でも24日の夜は荘厳なクリスマスのミサが行われ、これまで見たこともないほどの数の信者が堂内に集まりました。11時を過ぎる頃からはミサに集まる信者の数はどんどん増えて、しっかりと防寒の支度をした人々で堂内の三分の二くらいは埋まったと思います。このときほどフィレンツェにおけるサンタ・クローチェ教会の重要性を再認識させられたこともありませんでした。主祭壇の階段には赤い毛氈が敷かれ、赤と白のポインセチアの鉢に囲まれた中央にはワラを敷いた籠が一つ置かれています。これはサンタ・クローチェ教会にかぎったことではありませんが、12時の鐘が鳴り響くと同時に、マルカントニオ神父(司祭)の手で籠の中に(人形の)幼児キリストがそっと寝かされて、ミサはクライマックスに達するのです。ちょっと子供じみて聞こえるかもしれませんが、このようなキリスト降誕の場面を再現するセットは「プレゼーピオ」(またはプレゼーペ)と呼ばれ、聖フランチェスコの「グレッチョにおけるクリスマスの奇蹟」に起源をもつものですから、ことにフランチェスコ会系の教会ではクリスマスの時期の重要な舞台装置となっています。ちなみにサンタ・クローチェ教会では主祭壇のシンプルなものを除いても、主祭壇の左隣の礼拝堂と身廊地下の二カ所にプレゼーピオが飾られています。ベツレヘムの町、粗末な馬小屋、まぐさ桶に寝かされた幼児キリストを囲む聖母マリアと聖ヨゼフ、その背後にはロバと牡牛、天使のお告げで礼拝に集まってきた数人の羊飼い、羊の群れと犬、遠くには東方からキャラバンを仕立てて礼拝にやってくる三王(マギ)たちがプレゼーピオの主要モティーフですが、手の込んだものでは、ベツレヘムの町の人々の生活風景をことこまかに再現したものもあります。


サンタ・クローチェ教会のクリスマス・ミサ

幼児イエスが飾られた主祭壇前

サンタ・クローチェ教会のプレゼーピオ

 三王のベツレヘム到着は、厳密に言えば1月6日のエピファニア(御公現の祝日)なので、几帳面な教会などでは、キャラバンを少しずつ移動させて、1月6日には「三王礼拝」の場面設定をするところもあります。ちなみに、イタリアではエピファニアの前夜にベファナと呼ばれる醜い老婆が子供たちに贈り物をするという習慣があり、イタリアの子供たちは、わずか2週間のうちに二度もプレゼントをもらいます。しかし、サンタ・クロースの奥さんとも思われているベファナは夫ほど甘くなく、悪い子供にはお菓子ではなく炭を配って歩くので、1月6日の朝に目を覚ました子供たちはビクビクものです。ですから、クリスマスが終わると、お菓子屋さんのウィンドーには真っ黒な炭に似せた菓子が売り出され、言うことを聞かない子供たちに反省を促そうとする親たちが買い求めることになります。


雪化粧したフィレンツェ

雪のサンタ・クローチェ教会

雪のサンタ・クローチェ教会中庭

 ところで、クリスマスが過ぎ、いよいよ2005年も暮れようとする頃になって、イタリアは再び悪天候に見舞われました。今度は大雪で、北イタリアだけでなく南イタリアのナポリやサレルノあたりでも被害が出るほど、イタリア中が吹雪に包まれたから大変です。北陸地方と違って、雪などとは縁のないところに降ったので、さっそくに空港や高速道路が閉鎖され、クリスマス休暇が終わって移動する人々を足止めしました。めったに雪など降らないフィレンツェでも25cmの降雪がありましたが、これは20年ぶりの記録更新だそうです。すっかり金沢人になった私からすれば、「全然たいしたことない雪」もフィレンツェの人々にとっては大変な事件のようでした。あちこちで雪だるまを作る姿や雪合戦にはしゃぐ人たち、空に口を開けて雪の味見をする子供たち・・・市民のほとんどがカメラや携帯電話のカメラで美しく雪化粧したフィレンツェを撮影していたように思えたくらいです。そういう私も雪のフィレンツェは二度目の体験で、一日中カメラを担いで歩き回った一人ですが・・・。


雪をかぶった「ネプチューンの噴水」

雪をかぶった「コジモ1世騎馬像」

書斎の窓から見た雪のサント・スピリト教会


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壁画調査中の筆者
みやした・たかはる
1949年東京都生まれ。フィレンツェ大学教育学部(美術史)卒業。ウーゴ・プロカッチ教授のもとでフレスコ画法史を学び、アレッサンドロ・パッロンキ教授およびフランコ・カルディーニ教授に師事して「15世紀フィレンツェ絵画史における三王礼拝図」を研究する。1973-84年までイタリア在住11年。現在は金沢大学教授(教育学部)。専攻はイタリアの中世・ルネサンス美術史で、13-15世紀のイタリアにおけるフレスコ技法と図像学を研究。主な著書に『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内』(全5巻 美術出版社)、『モナ・リザが微笑む―レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』(講談社)、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』(共著 白水社)、『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)、『フレスコ画のルネサンス 壁画に読むフィレンツェの美』(NHK出版)がある。
フレスコ画のルネサンス
―壁画に読むフィレンツェの美

発売日:2001年1月
定価:2,625円
発行:日本放送出版協会
内容:イタリア・ルネサンス美術史の中で、「フレスコ画法の革新性」の意味と、絵画としてフレスコ壁画の果たした役割を考える。
宮下孝晴の徹底イタリア美術案内(1)〜(5)
発売日:2000年8月
定価:各2,940円
発行:美術出版社
内容:イタリアの88都市を巡って、都市に密着した美術史を紹介する美のイタリア巡礼紀行。
フィレンツェ美術散歩
発売日:1991年1月
定価:1,575円
発行:新潮社
内容:中世ルネサンスのおもかげを色濃く残すイタリア・フィレンツェの町を、教会、美術館を中心に紹介する。教会内部の見取り図など、詳細でわかりやすい内容。