第4回 フレスコ壁画とは何か

 壁画の歴史と言えば、アルタミラ洞窟やラスコー洞窟などの先史時代に描かれた壁画に遡るわけですが、ここでは13世紀の後半にイタリアで完成した「フレスコ」という技法で描かれた壁画を対象とします。イタリア美術史で「フレスコ画の時代」と言えば、ジョットからミケランジェロにいたる2世紀を指し、ほぼ新芸術を開花させたルネサンス時代と重なるのは偶然でしょうか。その問いに対する答は、この連載レポートの中で明らかにしたいと思います。


「アダムの死」 サンタ・クローチェ教会大礼拝堂壁画

 この時代のフレスコ画は単なる壁画ではなく、漆喰の微妙な化学変化を利用して明るく耐久性に富んだ壁画を制作することに画家が全力を傾けた時代でした。私たちは、そうしたフレスコ画を「よい」とか「純良な」という意味で「ブオン・フレスコ」(buon fresco)と呼んでいます。イタリア語で「フレスコ」とは新鮮な、つまり英語のフレッシュですから、塗りたての新しい漆喰壁に絵を描くのがフレスコ画であると定義することができるかもしれません。ただ、もう少し語義の条件を明確にしておいた方がいいでしょう。一つは、水で溶いた顔料にはいかなる接着剤(メディウム)も加えないこと。もう一つは、広大な壁面に描写を進めていく上で、画家は必ず壁面をジグソーパズルのように分割して、漆喰壁が乾かないうちに、それぞれ一日分ずつの面積(ジョルナータ)を描き上げていかねばならないことです。

 フレスコ画の特質を科学的に表現すれば、何らかの接着剤で溶いた絵具を支持体(布、板、壁など)に接着させるのではなく、漆喰(消石灰)が空気中の二酸化炭素と化合して炭酸カルシウム(石灰岩)に戻る際に、顔料の粒子をその結晶の中に閉じこめてしまうということになりますが、日本の絵画史では登場しない技法ですから、以下に拙著『フレスコ画のルネサンス』から引用しながら説明することにします。


「シバの女王の跪拝」サンタ・クローチェ教会大礼拝堂壁画

 日本の「木と紙の文化」に対して、ヨーロッパは「石の文化」だと言われます。木造の建築では、まず木の柱を立てますが、石造建築は石を積み上げて壁を造ることから始めます。ただ、中世のゴシック聖堂だけは、近代の鉄骨建築のようにリブ構造で、ステンドグラスをはめた大きな窓を取りつけたために、構造壁としての壁の意味は失われ、その面積も激減しました。それにしても、石の文化であるヨーロッパの建造物が日本の木造建築に比して、常に広大な壁面を有していることに変わりありません。

 建築デザインに決定的な役割を果たす壁面の装飾には、各時代で大きな関心が払われてきました。石やレンガを積み上げただけの壁面にどんな処理を施して装飾するかということは、裸の肉体にどんな衣装をまとわせるかというのと同じ意味あいの問題ではなかったでしょうか。ぜいたくな壁面装飾としては、美しいマーブル模様を見せる薄い大理石などの化粧板を貼る方法がありました。そのほかには、まだ柔らかい漆喰に砕いた天然石やガラス片をはめ込んで、幾何学模様やさまざまな画像を描き出すモザイク壁画、陶板(タイル)を貼りつめた陶壁というものも古くから存在していました。


「聖十字架の検証」サンタ・クローチェ教会大礼拝堂壁画

 窓から射し込んでくる自然の光を反射して輝き、見る者を魅了せずにはおかないビザンティン美術のガラス・モザイク壁画は中部イタリアにも大きな影響を与えていましたから、画家のチマブーエ(1240頃〜1302年)やジョット(1267頃〜1337年)もしばしばモザイク壁画の制作に関与していました。たとえば、チマブーエではフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井画やピサ大聖堂後陣の「福音書記者ヨハネ」像、ジョットではローマのサン・ピエトロ大聖堂に制作された「ナヴィチェッラ」などが知られています。なお、サンタ・クローチェ教会に「聖十字架物語」を描いたアーニョロ・ガッディの祖父にあたるガッド・ガッディも画家であると同時にモザイク画の作家で、フィレンツェ大聖堂のルネッタ(半月形部分)に『聖母の戴冠』を制作しています。

 しかし、もっと自由で、もっと経済的で、もっと短時間で壁面の装飾を完成させることのできる技法は、白く塗った漆喰壁の上に絵具で彩色することです。ただ、数十年のサイクルで建て替えられなければならないような、あるいは常に火災の危険性にさらされている日本の木造建築と比べれば、永遠に存在するかに思える石造建築の生命力に対して、装飾技法としての壁画は、あまりに弱く、もろいものでした。少なくとも、強い日光や直接の風雨にさらされる建物の外壁に描くには、まったく不向きな技法だと考えられていたわけです。


「エルサレムに十字架を持ち帰る皇帝ヘラクリウス」サンタ・クローチェ教会大礼拝堂壁画

 普通、何かに絵を描こうとすれば、顔料に接着剤(油、卵、膠、カゼイン、アラビアゴムなど)を混ぜて絵具を作らなければなりません。板や布のキャンヴァス地、あるいは壁面に塗られた絵具は、その接着力で(支持体に)定着して画面を作ります。これがテンペラ画です。しかし、彩色といっても所詮は顔料を接着したものですから、厳しい環境の中に置かれれば、多かれ少かれ長い年月の間に接着力が失われ、やがては描画(絵具)層が剥落してしまう運命にあります。

 ところが、13世紀の中頃のこと、耐久力に弱点のあった壁画技法に革命が起こり、主としてイタリア半島において一気に普及することになりました。その画期的な技法革命こそ、まだ濡れている漆喰壁に水だけで溶いた顔料で描いていくフレスコ画法なのです。つまり、「フレスコ」(fresco)というのはフレッシュ(新鮮な)という意味のイタリア語で、まだ生乾きの漆喰(新鮮な壁)に描く技法ということです。また、フレスコ画法で描いた壁画のことも「ア・フレスコ/アッフレスコ」(a fresco/affresco)と呼びます。その他の技法で描かれた壁画のことも、一般にはフレスコ画と称されることがありますが、正確ではありません。このために、あえて完全なフレスコ画を指して「ブオン・フレスコ」と呼んでいます。「ブオン」とは、“Buon giorno”(ブオン・ジョルノ 「こんにちは」の意)の “buon” で、「よい」とか「立派な」、あるいは「正しい」といった意味です。

 完璧なフレスコ画であるブオン・フレスコとは、いかなる接着剤も使わず、水だけで溶いた顔料で生乾きの漆喰壁に描いてゆく技法です。こうすれば、水とともに漆喰にしみ込んだ顔料は、漆喰が乾いて硬化する時に、その結晶の中に閉じ込められることになります。ところで、濡れた漆喰が乾いて硬化するというのは、実は水分の蒸発による乾燥とはまったく違う化学反応だという点に注意してください。

 漆喰というのは、石灰岩(炭酸カルシウム)[CaCO3]を焼いて水で練ったもので、化学組成としては水酸化カルシウム[Ca(OH)2]です。それが硬化するというのは、空気中の炭酸ガス(二酸化炭素)[CO2]と化合して、もとの炭酸カルシウム、あるいは石灰岩に戻る化学変化なのです。ですから、表面上の水分が蒸発して乾燥するのとは、本質的に異なります。このような化学変化を知れば、その結晶中に顔料が閉じ込められるという定着の実態がわかり、耐久力に富んだフレスコ画の秘密もわかるでしょう。たとえ、それが表層だけにしろ、描画層は色大理石と同じなのですから。

 ただ、このフレスコ画法(ブオン・フレスコ)で制作する画家としては、優れた耐久力や明るい色彩など他に比類のないメリットとともに、困った問題も抱え込むことになりました。

 第一に、漆喰が生乾きの状態はわずか7〜8時間しかなく、その間にすべてを描き終わらなければならないということです。後で加筆や修正をしたくてもできませんから、迅速かつ確実な腕前が要求されます。

 第二に、顔料が(アルカリ性の)漆喰にしみ込んでいくということは、アルカリ性に弱い顔料は変色して使えないことを意味します。今まで何の心配もなくテンペラ画に使っていた顔料の中から、基本的には耐アルカリ顔料を選択しなくてはなりません。

 第三には、漆喰が乾くと、濡れていた時とはかなり異なった発色をするので、画家は多くの経験を積んで乾燥後の色合いを充分に心得ている必要があることです。

 第一の問題を克服するために、「ジョルナータ法」(giornata)が考案されました。壁の全面に対して一度に上塗りの漆喰を塗ってしまうのではなく、画家が一日のうちに描写できる面積だけ、毎日塗り継いでいく方法です。したがって、フレスコ画の表面をよく観察すると、ジグソーパズルのような不規則な漆喰の継ぎ目を発見することができます。

 なお、どうしても共同制作をしなければならない場合には、足場の上に数人の画家が並んでいっしょに描写をする「ポンタータ法」(pontata)も利用されました。この場合には壁画の構図はおおむね水平分割で、漆喰の継ぎ目は足場のずらし幅である約1.5メートルであるのが普通です。

 第二の問題はフレスコ画法で濡れた漆喰に描く限り解決できないわけですから、アルカリに弱い顔料を用いる場合には、漆喰が完全に乾いてから、顔料に接着剤を加えた絵具で仕事をします。これをフレスコ画法(a fresco 「濡れた壁に」の意)に対してセッコ法(a secco「乾いた壁に」の意)と呼んでいますが、結局はテンペラ画法と同じです。

@壁体
 石積みかレンガ積みの壁のように材質的に均一で堅牢なものでなければなりません。壁面にはキズをつけて、上から塗る漆喰が壁体から剥離しないように凹凸をつけます。壁体の地下には湿気がないように配慮します。湿気は毛細管現象で吸い上げられ、フレスコ画を内部から破壊するからです。
Aアッリッチョ(下塗り漆喰)
 漆喰は少なくとも二層に分けて塗られますが、石やレンガの上に直に塗られる漆喰層をアッリッチョと呼びます。このアッリッチョも次に塗る漆喰層(イントーナコ)との密着を考えて、表面を荒らしておくことが必要です。塗った後、よく乾燥硬化させます。
Bシノピア
 アッリッチョの上に、シノピアと呼ばれる下絵を描きます。シノピアとは、もともと赤茶色の顔料(酸化第二鉄)の名前で、プリニウスの『博物誌』には、黒海沿岸の町シノペで最初に産出したことに由来すると記されています。今世紀に入ってからは、その顔料シノピアで描かれることの多かったフレスコ画の(アッリッチョに描かれた)下絵もまたシノピアと呼ばれるようになりました。
Cジョルナータ
 シノピアが描かれた全壁面を一日分ずつの仕事量として分割し、一日一日新たにイントーナコを塗り継いでは彩色していきます。人物の顔などの微妙な表現を要する部分は、小さな面積のジョルナータとなります。なお、ジョルナータとは「一日分」という意味です。
Dイントーナコ(上塗り漆喰)
 ジョルナータごとに、アッリッチョを湿らせた後に塗られる漆喰層をイントーナコと呼びます。ジョルナータとジョルナータの継ぎ目は、鏝で目立たないように押さえます。漆喰モルタルの配合は、アッリッチョよりも砂の分量が少なめです。
Eスポールヴェロ法(粉打ち法)
 イントーナコを塗った段階で、すでにシノピアの下絵は隠れています。正確なデッサンを転写する方法のひとつに、スポールヴェロ法があります。紙に描いた原寸の下絵(カルトーネ)の輪郭線上に太めの針で穴を開け、それを塗って間もないイントーナコの上に当て、カーボン・ブラックやシノピア(赤茶色の顔料)の粉末を入れたタンポで打つ方法です。
Fヴェルダッチョ
 人物の肉付き、つまりヴォリューム表現の効果を出すために、緑色(ヴェルデ)の下地塗りをすることをヴェルダッチョと言います。この後で、レッド・オーカー、イエロー・オーカーなどの顔料で最終的な彩色をするのです。

調査レポート 《画面のトレースとジョルナータ分割》


斜光線の照射角度を変えながらジョルナータの継ぎ目を追跡する

特徴的なジョルナータ分割は周囲の照明を消して記録撮影する

 8月初めから2週間ほどかけて、(妻と娘をアシスタントにして)全画面のジョルナータ分割の調査を行いました。大きな石造建築の教会堂内は真夏でも暑くてやりきれないということはありませんが、密閉された9階建ての足場では状況が一変します。微風すら吹かない閉じられた空間は、上に行くにしたがって気温も上昇し、おまけに調査用の照明器具をいくつも点灯していると、噴き出す汗が止まりません。朝9:30から教会が閉まる5:30まで、昼食はもちろん水一滴口にしない日も少なくありませんでした。足場を降りて教会の外へ出る時間も惜しかったし、弁当や水を「神聖な」大礼拝堂内に持ち込むことは、よほどのことがない限り、避けたいとも思っていましたから。

 さて、ジョルナータ分割の調査に入る前にやるべきことが一つあります。全画面の詳細な輪郭トレースです。撮影した写真を下敷きにして、画面内のすべてのモチーフをトレースするのです。文章で書けば簡単ですが、かなり根気のいる仕事で、これも私は家内と娘に感謝しなければなりません。このようにして用意した8枚の輪郭トレースの上に、現場でジョルナータの継ぎ目を追跡しながら、それを正確に写し取っていきます。この調査には斜光線を照射して壁面の凹凸を強調させる方法を用います。参考写真を見てもらえばわかるように、正面からのフラット光では見えない絵筆のタッチ(刷毛目)、壁面の小さな亀裂、重りあったジョルナータの継ぎ目、円光などの漆喰盛り上げ、コンパスで引っ掻いた痕跡などが、斜めからの強烈な光線を照射することで手に取るように見えてくるのです。断っておきますが、ここで照射する強い光線は熱源であるランプからグラスファイバーのチューブを通ってきた「冷たい光線」で、壁面そのものにはまったく熱は伝わりません。この特殊な照射装置(kenko Technolight)を、私は1990年のスクロヴェーニ礼拝堂壁画(パドヴァ)の調査以来ずっと愛用しています。


正常光「アダムの死」右側

斜光線「アダムの死」右側


正常光「アダムの死」左側.

斜光線「アダムの死」左側

 では、斜光線という魔法の光線で漆喰の継ぎ目であるジョルナータ分割すべてが明らかになるのかと言えば、そうではありません。ジョルナータの継ぎ目の方が、それこそ魔法のようにスーッと消えてしまうことが多いのです。照射角度を変えたり、壁面を拡大レンズで覗いたり、これまでのガッディ工房の分割方法を参考にしながら推測しつつ、何とか痕跡を見つけてたどっていくわけです。それでも、後世の修復と思われるジョルナータが交錯していたりで、別の調査方法によらねば決定しかねるものもあります。このような不確定な分割線は、トレース上では破線で記録してあり、これから実施される修復研究所の調査結果と対照させながら決定するつもりです。ジョルナータの継ぎ目を記録する上で大切なことがもう一つあります。それは隣り合ったジョルナータ(漆喰)の重なり方です。どちらが上にかぶっているかということは、フレスコ画制作の展開を知る上での基本データになります。原則論からいえば、「ジョルナータ分割」と各ジョルナータの「重なり方」がわかれば、どんな順序で壁画制作が進められ、制作日数がどのくらいであったのかが推測できるはずだからです。しかし、実際には他の考慮すべきファクターがいくつか存在するので、それほど単純に計算はできないのですが、そのことについては別の機会に詳しく説明します。






 ところで、開始から2週間ほどで全8画面のジョルナータ分割の調査が終了したものの、修復研究所の調査とは別に私個人が実施している壁画調査の第一段階が、これで終了したのでしょうか。いいえ、まだ調査の半分にも至ってはいません。それはジョルナータ分割の調査目的が、私の場合、アーニョロ・ガッディ工房の壁画制作プロセスの全貌を明らかにすることだからです。完了したのは大礼拝堂の広大な壁面の、おそらく半分くらいではないでしょうか。まだ天井の窮窿部分をはじめ、礼拝堂の壁面全体に描かれた多くの聖人像や天使、それに装飾フリーズなどが残されています。これからは後世の修復部分のチェックとともに、残された部分のジョルナータ分割を追跡しなければなりません。そうしなければ、アーニョロ・ガッディ工房が依頼された大礼拝堂の壁面装飾すべてにわたる制作プロセスの解明にはならないからです。どのような組織力で、どのくらいの人材が投入され、どのような技法が駆使され、どのくらいの期間を要した仕事であったのか。あるいはマエストロであるアーニョロ・ガッディ自身はどのように実際の制作に関与したのか、ガッディ工房以外の協力者には誰が加わったのか、どのような足場が設計されたのかなど。これらすべての疑問を解決する鍵が、全壁面のジョルナータ分割トレースの調査にあると私は思っています。

 フィレンツェ修復研究所はまもなく文化財修復を前提とした「現状記録」の作業に入りますが、私の方は全壁面の詳細な写真撮影とハイビジョンカメラによる映像記録を終了して、一歩リードした形で個人調査を進めています。私に許された現場での調査期間は余すところ半年になりましたが、来年の3月に帰国する前には相互に調査結果をつきあわせて、その後に展開される実際の修復作業のプランを煮詰めることができると思っています。

小さな発見!


装飾フリーズに隠された修復家の自画像

「十字架製作」右下のフリーズに自画像は描かれている

 9月6日、1ヶ月近くの間、全画面にわたるジョルナータ調査を手伝ってくれていた娘が思わぬ発見をしました。この半年間ずっと壁画と向かい合ってきた私でも見逃していた、親指の先ほどの小さな顔が「十字架製作」場面右下の装飾フリーズの葉に隠されていたのです。眼鏡をかけベレー帽をかぶった、ちょっと手塚治虫に似た人物です。すっかり植物模様の一部になりすまし、探せるものなら探してみなと言わんばかりに「隠し絵」として描き込まれています。それは植物と人物や鳥獣を合成して装飾模様としたグロテスク様式とも違って、植物を完全に隠れ蓑として、こっそりと描かれたユーモアで、「隠し絵のひとり笑い」が感じられます。

 もっとも、この人物が誰なのかは、すぐにはわかりません。眼鏡とベレー帽の風貌から、そんなに昔にはさかのぼらないはずで、近代以降の壁画修復を担当した人物だと思われます。自分が修復をした証に、(当然のことながら、正式には許可が下りるわけはないので)「隠し絵」で自画像を描いたのでしょう。この人物が誰であったかを突きとめることは、壁画に施された修復史の調査をする上でも大切なことなので、判明しだい報告したいと思います。ただ、この発見で私としては大きな脅威を感じています。それは、修復士の自画像が描かれていることから、そのあたりの描写は彼の筆になることは確かのはずですが、アーニョロ・ガッディ工房のタッチと寸分違わないのです。修復の際の加筆や補筆部分がはっきりとわかるようにする現代の修復方法と違って、修復の痕跡をできるだけわからないようにする昔の巧妙な技術を見せつけられ、(これからの調査作業である)原作と修復部分を見分けることの困難さをあらためて思い知らされました。

現地レポート 《プラートの「聖母の被昇天祭」》 (2005年8月15日)


城塞の前を進む歴史パレード

大聖堂前に到着するパレードを迎える司教

大聖堂のテラスから聖なる腰帯を提示する司教

聖なる腰帯の礼拝堂

 サンタ・クローチェ教会の大礼拝堂に「聖十字架物語」の壁画を制作したアーニョロ・ガッディは、最晩年(1392-95)にプラートの大聖堂内にある「聖なる腰帯の礼拝堂」の壁画を制作しています。プラート(Prato)は、フィレンツェの北西20kmほどのところにある繊維産業の盛んな町です。「聖なる腰帯」(Sacro Cingolo)というのは、聖母マリア様のしていた腰帯(ベルト)で、聖母が亡くなって3日後に、その魂と肉体がキリストによって天へと召される(被昇天)時に、その証を求める使徒のトマスに天空から聖母が自らの腰帯を解いて渡したものです。その貴重な聖遺物である聖母の腰帯はずっとエルサレムに保管されていましたが、12世紀にプラートの商人ミケーレ・ダゴマーリによって、プラートの町にもたらされたと伝説は語っています。聖母マリア崇拝の高まる13世紀からは、この「聖なる腰帯」に対する信仰もいっそうの高まりをみせ、聖母被昇天祭(8月15日)の腰帯公開には各地から熱心な信者たちがプラートの町に押しかけました。

 現在では、復活祭、5月1日、聖母被昇天祭(8月15日)、9月8日、クリスマス(12月26日)の毎年5回の公開日があります。フィレンツェから列車で20分ですから、私は8月15日と9月8日の公開とミサに参加してきました。ことに9月8日の午後には歴史パレードがあり、イタリア各地から華麗な中世の衣装をまとったグループが市庁舎前から大聖堂前まで2時間をかけて歴史絵巻さながらのパレードを繰り広げます。最後は市長から受け取った鍵で司教自らが礼拝堂内の祭壇から「聖なる腰帯」を取り出し、大聖堂内と大聖堂前の広場を埋め尽くす信者たちに、三回にわたって高く掲げて公開します。なお、広場の群衆に示すために大聖堂の正面ファサードの右上に設けられたテラス式の説教壇(Pergamo)の浮き彫りは、ルネサンス最大の彫刻家ドナテッロの手になるものです。(現在、オリジナルは大聖堂附属博物館に保管されています。)説教壇上から「聖なる腰帯」を高く掲げたまま、世界の平和とキリスト教の平和への貢献を熱く語りかける司教の姿が印象的でした。

 ところで、「聖なる腰帯」の祭といえば、ルネサンス美術史でも有名なエピソードというかゴシップを思い出す人も多いと思います。僧画家のフィリッポ・リッピ(1406頃-69)と尼僧のルクレツィア・ブーティの駆け落ち事件です。当時、サンタ・マルゲリータ尼僧院の補助司祭を務めていたフィリッポ・リッピは同尼僧院の修道女ルクレツィアと恋に落ちており、二人は祭でごった返す聖母被昇天祭の日にプラートの町から手に手を取って失踪したのでした。ところが、「腰帯の式典」のドサクサを利用して駆け落ちを計画していたのは、彼ら二人だけではありませんでした。ルクレツィアの妹のスピネッタをはじめ、同じ尼僧院の修道女4人が禁じられた恋に身を焦がし、それぞれの男たちと駆け落ち計画を実行に移したのです。怒り狂った時の法王は厳しい捜索を命じ、それぞれの恋路の果ては惨めな結果に終わりました。ただ、最後まで捜索隊の目を逃れて逃避行を続けていたフィリッポ・リッピとルクレツィア・ブーティの場合には、奇跡が起こります。以前からフィリッポ・リッピの画才を愛していたメディチ家のコジモがローマ法王に二人の還俗願いを書き、それが認められたからです。神の代理人であるローマ法王をも操るメディチ家の勢力、いや金力の大きさを思い知らされるエピソードだと思います。もし、二人の還俗が認められていなければ、ボッティチェッリとともにフィレンツェ・ルネサンス絵画を華麗に彩ることになる彼らの息子フィリッピーノ・リッピの活躍はなかったでしょう。


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壁画調査中の筆者
みやした・たかはる
1949年東京都生まれ。フィレンツェ大学教育学部(美術史)卒業。ウーゴ・プロカッチ教授のもとでフレスコ画法史を学び、アレッサンドロ・パッロンキ教授およびフランコ・カルディーニ教授に師事して「15世紀フィレンツェ絵画史における三王礼拝図」を研究する。1973-84年までイタリア在住11年。現在は金沢大学教授(教育学部)。専攻はイタリアの中世・ルネサンス美術史で、13-15世紀のイタリアにおけるフレスコ技法と図像学を研究。主な著書に『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内』(全5巻 美術出版社)、『モナ・リザが微笑む―レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』(講談社)、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』(共著 白水社)、『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)、『フレスコ画のルネサンス 壁画に読むフィレンツェの美』(NHK出版)がある。
フレスコ画のルネサンス
―壁画に読むフィレンツェの美

発売日:2001年1月
定価:2,625円
発行:日本放送出版協会
内容:イタリア・ルネサンス美術史の中で、「フレスコ画法の革新性」の意味と、絵画としてフレスコ壁画の果たした役割を考える。
宮下孝晴の徹底イタリア美術案内(1)〜(5)
発売日:2000年8月
定価:各2,940円
発行:美術出版社
内容:イタリアの88都市を巡って、都市に密着した美術史を紹介する美のイタリア巡礼紀行。
フィレンツェ美術散歩
発売日:1991年1月
定価:1,575円
発行:新潮社
内容:中世ルネサンスのおもかげを色濃く残すイタリア・フィレンツェの町を、教会、美術館を中心に紹介する。教会内部の見取り図など、詳細でわかりやすい内容。