外から見た大礼拝堂

第5回 壁画修復の方法と技術

 壁画の修復と保存の方法は、決して単純ではありません。壁画そのものの傷み具合によって、さまざまな方法が適用されるからです。ここでは基本的な方法を紹介するにとどめますが、アーニョロ・ガッディの壁画修復については、現場からの修復レポートで順に伝えていくことにします。

 もし、地震災害などのように、壁画の描かれている建造物そのものが大きな損傷を蒙ってしまった場合は、壁面を剥がしてパネル装にするしか方法はありません。壁面を壁体から剥がさずに、一定の大きさに切断して移動する方法(マッセッロ法)という方法もないわけではありませんが、かえって壁画を損傷してしまう危険性があり、現代ではほとんど採用されていません。


ストラッポ法による壁画の剥ぎ取り

剥がした壁面を巻き取る

ストラッポを繰り返して下絵のシノピアも剥ぎ取る

 壁面を剥がす場合、表面の描画層のみを薄く剥がすストラッポ法と、漆喰の上塗り層(イントーナコ)と下塗り層(アッリッチョ)の間で剥がすスタッコ法の二種類があります。薄く剥ぎ取った方が安全で、より広範囲の壁面を処理できるため、現在ではストラッポ法が主流です。ただし、壁画を壁体から剥ぎ取ってしまうことは、壁画を(移動可能な)タブロー画にしてしまうことで、文化財保存の立場からは賛成できません。第二次世界大戦の戦災で傷んだ壁画を救済するために最大限に利用された上記の剥離法は、その壁画の下から、下絵として描かれたシノピアや、さらに古い時代の壁画を発見するという美術史研究には大きな貢献をしましたが、文化財の修復と保存に対する「倫理」が確立する1980年代以降はほとんど採用されなくなりました。つまり、できるだけ壁体から剥がさずに、壁画としての本質を失わないような修復方法が採用されているのです。

 そのためには壁画が描かれている建造物の壁体そのものを、まずは健全な状況に置かねばなりません。亀裂を修復し、必要なら壁画の背後を支えている石や煉瓦を部分的に積み直すこともあるでしょう。壁画の大敵である雨漏りを防ぐためには、屋根の修理も不可欠です。また、壁体周辺の排水(水はけ)が悪ければ、水分や湿気が地下の塩分を吸い上げ、毛管現象によって壁画面に吹き出してきますから、壁画の描かれている建造物そのものの周辺環境も調査する必要があります。かつては石畳が敷かれていた建造物の周囲がアスファルトで舗装されたために、道路を走る自動車の振動が建造物の壁に亀裂を走らせるということも珍しくありません。寒冷地では亀裂に染みこんだ雨水が凍結して、さらに亀裂を広げて壁画の損傷を拡大していきますから、とくに注意が必要です。

 サンタ・クローチェ教会の大礼拝堂は、幸いなことに屋根の修理は終わっていましたので、最近の雨漏り被害はありませんが、過去にステンドグラスの窓が壊れていた時があったようで、雨が吹き込み、鳩が巣をつくっていた形跡があります。また、大礼拝堂の左右の側壁は下から約15mくらいまで、両側に礼拝堂が設けられていますから、直接に外気と触れることがないため、壁画の保存状態は悪くありませんが、そこから上の部分については私たちの予想を超えた傷み具合です。そして、高さ26mの高層建築ですから、かなり深刻な構造亀裂も認められます。


壊れた窓から侵入した雨水と鳩のフンで傷んだ壁画

 壁画の修復といっても、まずは壁画の描かれている建造物を含めた現状の調査と分析が必要で、これから数ヶ月は各分野の専門家たちによる「診断と精密検査」の時期と言えるでしょう。そうした各種の検査と診断の結果を総合して、最善の治療方法が検討されることになるわけですが、文化財の修復というのは「医療」によく似ているところがあるので、アーニョロ・ガッディの壁画は今、人間ドックならぬ「壁画ドック」に入っていると想像してもらえばいいでしょう。

調査レポート 《壁画面の本格的調査が始まる》

 10月から約4ヶ月間の予定で、以下のような壁画面の調査が始まっています。これらの調査が終了しないことには、修復作業には入れないわけですが、私が帰国するまでには何とか修復作業に着手できるようにとの配慮から、友情に厚いスタッフは努力してくれていますが、(ことが計画通りに運ぶよう)私としては祈るだけです。


調査方法にについてのミーティング


サーマルヴィジョン調査担当のグイド

床面にファンヒーターを照射

サーマルヴィジョン・カメラによる撮影

 聞き慣れない用語ばかりで、項目だけでは何の興味もそそられないかもしれせんが、実際に調査活動に参加すると、「新たな発見」や「新たな謎」が続々と登場してきます。すべてを詳細に、また正式発表として報告する時期ではありませんが、これから5年間にわたる修復活動に注目していくためには、多少の「結果」をこのレポートの読者にも知ってもらった方がいいと思うので、これから順を追って簡単な解説をしていくつもりです。今回は、早くも一段落した「6.サーマルヴィジョンによる調査」について報告します。

 まず、まるでレントゲン撮影のように、壁画の奥深いところまでの状態を観察することができるサーマルヴィジョン調査の原理について説明します。プロパンガスのファンヒーター(42kw,850m3/h)を足場の床面に約2分間、均等に照射し、間接的に壁画面の温度を上昇させた後、壁面から放射される遠赤外線量の違いを赤外線カメラで画像化するという、理論は難しいのですが、実際にはいたって簡単な検査方法です。このサーマルヴィジョンの方法は、蛍光エックス線分析と並んで、現在では(検査対象の作品に触れたり、サンプリングしたりしない)非接触かつ非破壊検査方法の代表的なものとなっています。モニター上の遠赤外線画像は感知した温度差を異なった色で表示しますから、一目で壁画内部の状況がわかるのです。同じ方法が最近では、人体の皮膚温分布を測定して、生理的調節機能や病状の診断にも利用されているので、サーマルヴィジョン(サーモグラフィ)は身近なものとなりつつあると思います。しかし、最近のテクノロジーの進歩で、かつての大がかりな装置一式が小型ビデオカメラほどになってしまったことには驚かされました。それも日本製ですから、ちょっと誇らしい気分です。

 サーマルヴィジョン調査は、できるだけ同じ状況下で実施される必要があるので、担当者のグイド(Guido Roche, ミラノ工科大学卒業)は、3日間で全壁面の半分(右側壁)を検査しました。毎朝8:30から夜の9:00まで孤軍奮闘ですから、イタリア人にはめずらしく日本人的な仕事熱心さをもった青年で、私も親近感を覚え、ついつい彼の仕事を見守ることが多くなったものです。アッリッチョ(下塗り漆喰)とイントーナコ(上塗り漆喰)の剥離状況、壁画の下に隠れた亀裂、壁体を構成する石積みの状態などが、モニター上にはっきりと色の違いで示されるのですから、そばで見ていても楽しくて仕方ありません。


データをパソコンに移して壁面下の状況をチェック

壁面下の状況を他のスタッフと検討

 他の方法による調査・分析結果を総合して最終診断を下すわけで、サーマルヴィジョンの結果だけでは不十分であることは承知の上で、いくつかの興味あるデータを紹介しましょう。大礼拝堂の側壁下方には壁体を強固にするため、ブラインドアーチが隠されていました。また、ほぼ等間隔で垂木を刺した穴らしきものが発見できましたが、これは壁画装飾のために建設された足場がどのような形態のものであったかを研究する際に重要な手がかりになります。(実は、これらの結果は私の当初から想像していたアーニョロ・ガッディの壁画制作の実態を裏づけてくれるもので、私としては自分の予測が「的はずれ」でなかったことに喜びを感じています。)このほか、壁画を観察しているだけでは見えなかった深刻な亀裂の状況や、後世の修復で(原作とは違う構成の砂や漆喰)で補填された部分、漆喰間剥離を生じている部分などが(不確定要素を含みながらも)見えてきました。

またまた小さな発見!


フリーズに描かれていた修復士の自画像

足場の4階東側にあるステンドグラスの右フリーズ

 10月18日、その場に私はいませんでしたが、修復研究所のスタッフがまたしても壁画に描き込まれた修復家の自画像を発見しました。娘が発見した自画像については修復士たちにも話をし、アルベルトとは現場でいっしょに見て、「自分たちも自画像を隠し絵で描こうか。でも、TAKA(最近では、修復研究所の仲間は私のことをTAKAHARUとうまく発音できないので、そう呼んでいます。)の肖像を描いたら、それが誰だかすぐにわかってしまうな。日本人だから。」と冗談を言い合ったものでした。ところが、壁画部長のクリスティーナ・ダンティ女史が足場の上にやってきた10月18日の朝、話題が「自画像」のことに及んで、みなでそれを探したらしいのですが、どうしても見つからず、その代わりに(足場の)同じ階にある別のところで、なんと別の自画像を発見してしまったのだそうです。その場にいたのは、修復士のチェチリア・フロジーニ、マリアローザ・ランフランキであったことを、ここに記録しておきたいと思います。

 その場所は足場の4階、東側にあるステンドグラスの窓の右フリーズです。ベレー帽をかぶっている点は前の自画像と同じですが、それは「隠し絵」とは呼べないほど大きく、図々しくも植物模様の中心に正面向きで描かれていました。おそらく、1940年代の修復の際に描かれたものですから、人に見られるのは60年ぶりということで、少し恥じらいもあるようですが、その顔はいかにも懐かしそうに私たちを見つめていました。やがて、これら過去の修復士たちの正体が解き明かされるときがくるでしょう。しかし、二つの自画像の描かれていた部分が後世の、それも最近の修復部分であったということは前回も書きましたが、ほんとうに驚異です。修復の哲学も技術も現代とはまったく違った時代のものですが、欠損部分の描写力という点では、もしかすると「修復士」という肩書きの我が友人マリアローザやアルベルトより上ではなかったかと思います。本職の「画家」が副業として、この修復に動員されたのではなかったでしょうか。4人の修復士たちが今、徹底的な壁画面の調査を行っていますが、(想像以上に)巧みに修復された後世の修復部分を見分けることは、少なくとも私には至難の業に思えます。さまざまな最新テクノロジーを利用した分析機器が足場に持ち込まれていますので、人間の目がごまかされてしまう部分については、冷徹な科学の目に応援してもらうことになりそうです。

現地レポート 《10月4日は聖フランチェスコの祝日》


聖フランチェスコの祝日に行われたサンタ・クローチェ教会のミサ

サンタ・クローチェ教会に保存されている聖フランチェスコの僧衣
 
 
 
 
 
 

大礼拝堂の右に描かれている「聖痕拝受」(ジョット)

聖フランチェスコが聖痕を受けたラ・ヴェルナ山

 サンタ・クローチェ教会の聖具室(Sagrestia)には、聖フランチェスコが着ていた僧服が大切に保存されています。7世紀以上を経た僧服はさすがに傷んでいますが、イタリアでもっとも人気のある聖人(イタリアの守護聖人でもある)だけに、敬虔な信者たちが展示ケースの前に足を止め、祈りを捧げている姿を目にすることがしばしばです。いったい何着の僧服が今も保存されているかは知りませんが、私が知る限りでは三着あります。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会のほかには、聖人が埋葬されているアッシージのサン・フランチェスコ教会と、もう一着は聖フランチェスコが40日の断食の末に(磔刑の)キリストと同じ聖痕を受けたというラ・ヴェルナ山上に建つマッジョーレ教会に保存されています。ちなみに、聖フランチェスコの「聖痕拝受」の日は1224年9月14日で、亡くなったのは1226年10月3日です。

 キリスト教のカレンダーでは、10月4日が聖フランチェスコの祝日と定められており、フランチェスコ会系の教会では盛大なミサが行われます。ここサンタ・クローチェ教会でもフィレンツェ大司教がわざわざ出向いてきて盛大なミサを行うばかりか、県や市の代表が多く出席するため、当日はものものしい警護態勢がしかれていました。この日は朝から教会も附属博物館も閉鎖され、ミサが始まる1時間前まで、誰ひとり教会堂内には入れないという状態でした。6時からのミサだというのに、熱心な信者たちは5時頃から教会に詰めかけてきましたが、教会の扉はなかなか開かれませんでした。しばらくして、中から扉が開かれましたが、堂内に入れてもらえたのは、なんと私たち夫婦だけなのです。守衛たちによれば、「宮下教授は特別だから、先に通しなさい。」と、堂内からの指示があったそうです。こんな特別待遇は嫌だなと思いながらも、多くの信者たちのねたましそうな視線を尻目に、私たちは(ちょっと気まずい思いで)薄暗い堂内に足を踏み入れたのでした。26mの高さの大礼拝堂は、例のように、全面が壁画修復の足場で覆われていて、荘厳なミサの挙行には似つかわしくない背景でしたが、それでも教会側はせいいっぱいに主祭壇を飾っていました。いつもと違うのは、念入りな祭壇周囲の飾りつけだけではありません。いつもは奥まった聖具室の展示ケースに保管されている聖フランチェスコの僧衣が主祭壇わきに飾られ、今日は主役の座を占めているばかりか、主祭壇周辺は数人の憲兵(carabinieri)たちによって警護されていたのです。


カステルフィオレンティーノのサン・フランチェスコ教会

サン・フランチェスコ教会内でのミサのあと

聖フランチェスコの僧衣に礼拝する人々

 サンタ・クローチェ教会付属修道院長のマルカントニオ神父やフィレンツェ大司教の「話」や、ミサの模様は割愛するとしても、「聖フランチェスコの僧衣」との偶然の再会については書いておきたいと思います。

 フィレンツェの近郊にカステルフィオレンティーノという小さな町がありますが、10月9日に私がここのサンタ・ヴェルディアーナ博物館にタッデーオ・ガッディ(ジョットの弟子でアーニョロ・ガッディの父)の祭壇画を調査に出掛けたときのことです。目当ての作品のうちの一点が、もとの所蔵場所であるサン・フランチェスコ教会に戻されていることがわかりました。幸いに、サン・フランチェスコ教会は博物館からは目と鼻の先でしたから、すぐに教会に向かったのはいいのですが、日曜日とはいえ、教会の外にまで人があふれるほどの熱狂的なミサで、入り口に近づくこともできないほどでした。11時45分、ミサが終わるのを待って、やっとのことで堂内に入ると、そこにいたのはサンタ・クローチェ教会のマルカントニオ神父ではありませんか。相好を崩して神父は、「オリエントからの客が、この小さな町にも来てくれた。」と、私たちを大歓迎してくれましたが、この奇遇にはほんとうに驚かされました。マルカントニオ神父は、この日のミサのためにフィレンツェからサンタ・クローチェ教会に保存されている貴重な聖遺物である「聖フランチェスコの僧衣」を持参してきていたのです。サンタ・クローチェ教会に通っている私たちにとっては見慣れた「聖フランチェスコの僧衣」が、この町にやってくるというので、この日は町をあげての熱狂的なミサだったわけです。ミサが終わっても、主祭壇前に飾られた聖遺物を間近に見ようとする信者が長蛇の列をつくって、堂内からはなかなか熱気がさめやらない状態が、かれこれ30分も続いたでしょうか。レポート3「フィレンツェのサンタ・クローチェ教会」でも書きましたが、急激に増大していく信者の数に教会建設が間に合わず、二度三度と建設計画が変更された13世紀を彷彿とさせるような宗教的状況を垣間見たような一日でした・・・といえば、少し大袈裟でしょうか。



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壁画調査中の筆者
みやした・たかはる
1949年東京都生まれ。フィレンツェ大学教育学部(美術史)卒業。ウーゴ・プロカッチ教授のもとでフレスコ画法史を学び、アレッサンドロ・パッロンキ教授およびフランコ・カルディーニ教授に師事して「15世紀フィレンツェ絵画史における三王礼拝図」を研究する。1973-84年までイタリア在住11年。現在は金沢大学教授(教育学部)。専攻はイタリアの中世・ルネサンス美術史で、13-15世紀のイタリアにおけるフレスコ技法と図像学を研究。主な著書に『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内』(全5巻 美術出版社)、『モナ・リザが微笑む―レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』(講談社)、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』(共著 白水社)、『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)、『フレスコ画のルネサンス 壁画に読むフィレンツェの美』(NHK出版)がある。
フレスコ画のルネサンス
―壁画に読むフィレンツェの美

発売日:2001年1月
定価:2,625円
発行:日本放送出版協会
内容:イタリア・ルネサンス美術史の中で、「フレスコ画法の革新性」の意味と、絵画としてフレスコ壁画の果たした役割を考える。
宮下孝晴の徹底イタリア美術案内(1)〜(5)
発売日:2000年8月
定価:各2,940円
発行:美術出版社
内容:イタリアの88都市を巡って、都市に密着した美術史を紹介する美のイタリア巡礼紀行。
フィレンツェ美術散歩
発売日:1991年1月
定価:1,575円
発行:新潮社
内容:中世ルネサンスのおもかげを色濃く残すイタリア・フィレンツェの町を、教会、美術館を中心に紹介する。教会内部の見取り図など、詳細でわかりやすい内容。