第3回 フィレンツェのサンタ・クローチェ教会


足場の上から見たサンタ・クローチェ教会堂内

ミケランジェロの墓

ガリレオ・ガリレイの墓

旧修道院の食堂

サンタ・クローチェ教会平面図

 「フィレンツェのパンテオン」として知られるサンタ・クローチェ教会を訪れた日本の読者も多いことでしょう。教会の堂内には、世界中の誰もが知っている多くの著名人が眠っていて、歴史の教科書が懐かしく思い出されます。科学者ガリレオ・ガリレイの墓、彫刻家ギベルティ親子の墓、政治理論家ニッコロ・マキアヴェッリの墓、イタリア・ルネサンス三大巨匠の一人ミケランジェロ・ブオナッローティの墓、作曲家ジョアッキーノ・ロッシーニの墓のほか、人文主義者のレオナルド・ブルーニや『神曲』のダンテ・アリギエーリの記念碑などが並んでいる堂内は、それだけで壮大な歴史を語っているわけです。しかし、ここでは教会本来の歴史と建築について、少し詳しく述べることにします。なぜなら、アーニョロ・ガッディが壁画を描いた大礼拝堂はサンタ・クローチェ教会のもっとも神聖かつ大切な空間であり、主題の「聖十字架物語」は教会の名前となっている「サンタ・クローチェ」(聖十字架)の神秘を豊かなイメージで雄弁に語っているものだからです。

 1211〜13年の間に、アッシージの聖フランチェスコ(1181-1226)自身がフィレンツェにやってきて、おそらくは現在のサンタ・クローチェ教会あたりに宿泊し、祈祷所を設けて「新しい時代の福音」を伝えたという事実から教会の歴史は出発します。サンタ・クローチェ教会(修道院)という名前も1228年の記録にありますから、聖フランチェスコの墓の上に建設されたアッシージの聖フランチェスコ教会と同時期の建設になるわけです。当時の都市国家フィレンツェは経済力が急成長しており、1235年にはフィオリーノ銀貨、1252年には「中世のドル」とも評されるフィオリーノ(フロリン)金貨の鋳造を開始します。富裕な商人たちの寄進やローマ法王庁の援助もあって、修道院を含むサンタ・クローチェ教会は急成長したようです。祈祷所か礼拝堂と呼んだ方がふさわしい当初の教会は、現在の附属博物館内にある一室(Cappella Cerchi)であったと考えられていますが、すぐに手狭になって、隣接した地に第二の教会建設が始められます。それでも修道会の急成長には追いつかず、第三の教会建設が、もう一つの托鉢修道会であるドメニコ会の教会建設と対抗するように計画されたのではないかと思われます。こうして、中途半端な大きさであった第二の教会は、教会としてではなく、計画を変更して修道院の食堂として利用されることになりました。これも現在の附属博物館の一部となっているところで、タッデーオ・ガッディの『最後の晩餐』、アンドレア・オルカーニャの『最後の審判』(断片)、チマブーエの『磔刑像』、ドナテッロの『聖ルイ』などが展示されています。

 前述のように、フィレンツェ大聖堂の西側に建設されつつあったドメニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会と相対峙するように、同等の規模で新サンタ・クローチェ教会の建設が始まるわけですが、その設計と建築にはフィレンツェ大聖堂やヴェッキオ宮殿など、新時代のゴシック様式でフィレンツェに力強い輪郭を与えた建築家アルノルフォ・ディ・カンビオが投入されました。ある記録には、定礎式が1296年5月に行われたとありますが、建設工事の進展を裏づける教会自体の記録や資料が、アルノ川沿いの低地に建設されているサンタ・クローチェ教会を襲った何度かの大洪水で失われてしまった現在、どのような過程を経て教会が建設され、装飾されたかを詳細にたどることは容易ではありません。しかし、研究者たちの推論では、教会建設は(平面図で言えば東側の)大礼拝堂と、その左右に連続する合計10の小礼拝堂から進められ、正面ファサードの装飾を除けば、1384年までにはほとんど完成していたと考えられています。ただし、正式な献堂式はローマ法王エウゲニウス4世を迎えて挙行された1443年です。

現地レポート (2005年7月25日)


設置された換気ダクト

足場の「鍵の受け渡し」

足場の落成式

マルカントニオ修道院長を囲む足場建設の関係者たち
 

我が家での「寿司パーティー」(押し寿司に挑戦)

我が家での「寿司パーティー」(巻き寿司に挑戦)

 7月23日、換気ダクトの取り付けが完了し、これから5年間にわたって修復作業が行われる足場の建設は完成しました。4月12日に大礼拝堂内に設置されている木製の合唱隊席に保護シートを掛ける作業から始まった足場建設は、エレベーターの設置や諸設備の取り付けを含め、ほぼ3ヶ月をかけて完全に終了したわけですが、なかなか計画通りにコトが運ばないイタリアでは異例の早さと言うべきでしょう。この異常なスピードについては、私だけでなくイタリア人の関係者自身も驚いており、私と妻が毎日足場建設の現場に通い詰めた「日本効果」だと言うことになっています。大礼拝堂の周囲に設置されている合唱隊席、天井から吊られた十字架像、主祭壇に飾られた多翼祭壇画、窓にはめられたステンドグラスなど、貴重な美術品や文化財をそのままにしての足場建設でしたから、作業は慎重をきわめたものでした。こうした作業には充分なキャリアのあるマンヌッチ社の作業員たちが手際よく仕事を進めていくのですが、それでも下から見ているとヒヤヒヤの連続で、「気をつけて。周囲のすべてが世界遺産なんだから、細心の注意を払ってください。お願いします。」と祈るような気持ちで、サーカスの曲芸師のように空中で鉄パイプを組み上げていく「たくましいお兄ちゃんたち」に声をかけ続けました。彼らを仕切るのは、マンヌッチ社に人生を捧げたような現場主任のジュゼッペ。私たちはベッペという愛称で呼んでいますが、父の仕事を継いだ若い女性社長のラウラを支えながら、作業現場全体に目を配ってくれる「信頼の人」です。マンヌッチ社そのものがサンタ・クローチェ教会と深い関係があり、ベッペは1966年のフィレンツェ大洪水で被害を受けたサンタ・クローチェ教会の復旧にも貢献した「教会の歴史を知る人物」でもあります。

 7月25日は、完成した足場をサンタ・クローチェ教会(Opera di S.Croce:財産管理部)側から、今後5年間にわたって修復を担当する国立フィレンツェ修復研究所(Opificio delle Pietre Dure)に引き渡す日です。あらかじめ壁画部長のクリスティーナ・ダンティさんから私に連絡がありましたが、その際に彼女は(冗談めかして)「鍵の受け渡しの儀式があるから、25日はあけておいて。」と言ったのです。ほんとうは儀式でも何でもない、単なる鍵の受け渡しに過ぎなかったのですが、私は妻と相談し、本格的な「儀式」にしてしまうことにしました。つまり、これは日伊共同プロジェクトの足場の落成式でもあるのだから、日本の習慣にならって「お酒と寿司」でお祝いをしようと考えたのです。ダンティさんは「私が儀式と言ったのは、ちょっと格好をつけて大袈裟に表現しただけだから。」と慌てたものの、4月に我が家で開催した「寿司パーティー」で寿司と日本酒の大ファンになっていましたから、「でも、みんな喜ぶから、日本式にお祝いしましょう。」ということになりました。「寿司パーティー」というのは、イタリア人関係者たちを我が家に招いて、「押し寿司」と「巻き寿司」を自分たちで作って食べるという趣向の、楽しくも賑やかな宴のことです。(この時の私の役割は、「押し寿司」の箱を製作するというものでした。)

 こうして25日の12時、足場の6階に設けられたミーティング・スペースで、サンタ・クローチェ教会財産管理部の事務局長ジュゼッペ・デ・ミケーリ氏から壁画部長のクリスティーナ・ダンティさんへ、厳かに(?)足場の「鍵」が受け渡されました。その後、足場建設に関わった主だった人々に、金沢大学の林学長の代理として私が御礼を述べ、日伊共同プロジェクトらしく、寿司をつまみながら日本酒で乾杯したのです。教会の大礼拝堂の上でしたが、修道院長のマルカントニオ神父も上機嫌で参加し、プロジェクトの成功を皆で祈りました。

現地レポート (2005年7月28日)


プレス発表で挨拶する筆者
 

記者やカメラマンの熱気がこもる足場

紹介されたイタリアの新聞 (il Corriere)

紹介されたイタリアの新聞 (il Giornale della Toscana)

 7月28日午前11時ちょうどに、予定通りプレス発表が行われました。場所はサンタ・クローチェ教会附属博物館の一部となっている旧修道院の食堂で、昨年6月には調印式が行われた、私にはひとしお感慨深いところです。さすがにフィレンツェ三大教会の一つであるサンタ・クローチェ教会大礼拝堂の修復とあって、新聞社や放送局から数十人の記者やカメラマンがつめかけ、あらためてこのプロジェクトの注目度の高さを確認しました。また、これだけ多くのジャーナリストが集まった理由には、これがフィレンツェ美術を愛する純粋な日本のメセナによる修復プロジェクトであること、高さ26mの足場の初公開で「傷んだ6世紀前の壁画」を写真や映像で紹介できることがあったと思います。

 日本と金沢大学を代表して話をするという立場に、前もって原稿など用意したことのない私が、初めて原稿メモを用意しました。実際の場ではメモを見たわけではないので、原稿通りに話したわけではありませんが、私の伝えたかったことをここにも引用しておきたいと思います。


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 金沢大学の教授で美術史を研究している宮下孝晴です。この3月から私は日本の文部科学省から派遣されてフィレンツェに来ています。それは金沢大学はもちろんのこと、日本がこの希有な日伊共同の壁画修復プロジェクトをしっかりと前進させたいと考えているからにほかなりません。まもなく、皆さんは大礼拝堂に建設された高さ26mの足場を目にし、それに上るわけですが、この巨大な足場の建設こそ、プロジェクトの大切な第一歩であったと私は思います。たしかに、サンタ・クローチェ教会を訪れる世界中からの見学者の方たちには、ゴシック建築とは美学的に調和しない足場の存在が気になるはずです。しかし、私は観光客や見学者の方たちにも「フィレンツェの偉大な中世がよみがえる時」に立ち会えたことを、いっしょに喜んでほしいのです。ですから、私たちは「囲いの中で秘密に行う修復」ではなく、いかなる意味でも「開かれた修復現場」を目指しています。

 ここで私はフィレンツェ美術史の講義をするつもりはありません。ここにいらっしゃる方々は、14世紀後半の美術が偉大なるジョットとマザッチョの狭間でなかなかスポットライトを浴びることがないということをよく承知していらっしゃるだろうと思うからです。私たちの修復プロジェクトは、ヤコブス・デ・ウォラギネによって書かれた「聖十字架物語」を生き生きとしたイメージで最初に語ったアーニョロ・ガッディの絵画世界を解き明かしてくれるでしょう。

 私たちはまた、このトスカーナ地方には同主題の壁画がいくつも描かれたことを知っています。たとえば、ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会に描かれたチェンニ・ディ・フランチェスコの壁画(1410)、ほとんど失われてしまいましたが、エンポリのサント・ステファノ教会(サンタゴスティーノ教会とも呼ばれる)にマゾリーノが描いた壁画(1424)、そして、アレッツォのサン・フランチェスコ教会にピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた15世紀ルネサンスを代表する壁画(1452-66)などなど。今、私たちはこれらの作品群をつなぐ最も重要な手がかりを手に入れようとしているのです。図像学的な観点からも、また壁画技法の観点からも。それは14-15世紀の絵画技法を具体的に伝えてくれる「絵画術の書」(IL Libro dell’arte)を著したチェンニーノ・チェンニーニが、アーニョロ・ガッディの弟子であったからです。私がここに持ってきた一冊の本が、私が学生時代に勉強した「絵画術の書」です。もっと正確には、私がフィレンツェ大学の学生であった時の教科書です。つまり、「フレスコ画の発見と修復の父」とでも私は呼びたいウーゴ・プロカッチ教授が1974-75年度に開講していたゼミの教科書です。この本、このゼミ、プロカッチ教授との出会いこそが、このプロジェクト誕生の原点であったということを、私は運命深く感じています。

 最後になりましたが、この場を借りて、また私個人というよりは金沢大学を代表して、このシスティーナ礼拝堂よりも高いサンタ・クローチェ教会大礼拝堂の足場を完全に、そして無事に建設してくれたマルコ・パンカーニ氏とマンヌッチ社の方々に深く御礼を申し上げたいと思います。
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 この日から数日にわたって、新聞やテレビでプレス発表の模様や傷んだ壁画の現状が広く報道され、ますますこのプロジェクトへの注目が高まりました。私が足場の上で調査をしていると、観光ガイドがこのプロジェクトの説明をしている各国語の声が聞こえてきて、うれしくなります。

現地レポート (2005年8月4日)


右手を破壊された海神ネプチューン

破壊される前の海神ネプチューン

 8月4日の午前3時、フィレンツェでは悲しくも腹立たしい事件が起きました。シニョリーア広場の噴水の中央に立つ海神ネプチューンの大理石像に一人の若者がよじ登ったため、海神の右手が落下して砕けてしまったのです。幾多の戦乱やクーデター、洪水などの災害にも耐えて四世紀以上もの歴史を生きてきたフィレンツェの象徴的彫刻が、こんなつまらないことで傷ついてしまいました。通称「白い巨像」(ビアンコーネ)として親しまれているバルトロメオ・アンマンナーティの傑作は今、その痛々しい姿を観光客の前にさらしつつ、芸術作品が歴史を生き延びることの難しさを語っています。その衝撃的な一部始終は広場に設置されていたテレビカメラで撮影されており、酒に酔ってのことだったらしいのですが、何度見ても腹が立ちます。私たちがいっしょに仕事をしているフィレンツェの修復研究所が来春までには修復しますと、頼もしい発表をしているものの、フィレンツェではテロへの警戒とともに美術品や文化財への警戒もますます厳しくなるでしょう。

 かつてはフィレンツェの政治の中心、今は観光の中心にあるシニョリーア広場の噴水は、このところ散々な目に遭っており、アンマンナーティの『ビアンコーネ』は海神といえども、非情な人間どもの仕打ちに悲鳴を上げているに違いありません。1981年には海馬の蹄が二つ破損。1982年にサッカーのワールドカップでイタリアが優勝した時には、海神ネプチューンの背中が青く塗られました。また、1986年と1989年には再び海馬の蹄が壊されています。そして、1991年には海神が頭に戴いている冠(実は鳩よけの仕掛け)を取ろうとパンツ姿の男が像によじ登りましたが、幸いにも事なきを得ています。

スタッフ紹介 −壁画修復プロジェクトの関係者たち

これから順を追って、この壁画修復プロジェクトの関係者たちを紹介しようと思います。今回は、26mの足場の建設に深く関わった人たちです。


総責任者
マルコ・パンカーニ
(Marco Pancani)

マンヌッチ社 社長
ラウラ・マンヌッチ
(Laura Mannucci)

現場責任者
ナルディーニ・ジュゼッペ
(Naldini Giuseppe)

技術主任
カナッチ・ミケーレ
(Canacci Michele)

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壁画調査中の筆者
みやした・たかはる
1949年東京都生まれ。フィレンツェ大学教育学部(美術史)卒業。ウーゴ・プロカッチ教授のもとでフレスコ画法史を学び、アレッサンドロ・パッロンキ教授およびフランコ・カルディーニ教授に師事して「15世紀フィレンツェ絵画史における三王礼拝図」を研究する。1973-84年までイタリア在住11年。現在は金沢大学教授(教育学部)。専攻はイタリアの中世・ルネサンス美術史で、13-15世紀のイタリアにおけるフレスコ技法と図像学を研究。主な著書に『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内』(全5巻 美術出版社)、『モナ・リザが微笑む―レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』(講談社)、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』(共著 白水社)、『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)、『フレスコ画のルネサンス 壁画に読むフィレンツェの美』(NHK出版)がある。
フレスコ画のルネサンス
―壁画に読むフィレンツェの美

発売日:2001年1月
定価:2,625円
発行:日本放送出版協会
内容:イタリア・ルネサンス美術史の中で、「フレスコ画法の革新性」の意味と、絵画としてフレスコ壁画の果たした役割を考える。
宮下孝晴の徹底イタリア美術案内(1)〜(5)
発売日:2000年8月
定価:各2,940円
発行:美術出版社
内容:イタリアの88都市を巡って、都市に密着した美術史を紹介する美のイタリア巡礼紀行。
フィレンツェ美術散歩
発売日:1991年1月
定価:1,575円
発行:新潮社
内容:中世ルネサンスのおもかげを色濃く残すイタリア・フィレンツェの町を、教会、美術館を中心に紹介する。教会内部の見取り図など、詳細でわかりやすい内容。