第2回 アーニョロ・ガッディの壁画連作
     「聖十字架物語」を修復の対象に選んだ理由

 どの壁画を修復するかという私に課された最初の問題について、私自身の頭の中にあった選択基準を説明しましょう。私にすべてを一任してくれた寄付者からは、修復対象の壁画については何の条件も提示されませんでした。ただ、漠然と「中世からルネサンス時代くらいにかけての作品が理想ですね」という希望はありましたが、それは私の判断を強く拘束するようなものではなく、すべては私の専門的判断に委ねられたわけです。それに「中世からルネサンス時代」という寄付者からの希望は、まさに私が専門とする時代でしたから、私としても望むところでした。このレポートの第4回で詳しく説明するつもりでいますが、実は「イタリアにおけるフレスコ画の時代」そのものが14世紀から16世紀まで、もっと具体的に言えば、ジョットからミケランジェロまでですから、ジョット以前にもミケランジェロ以後にも壁画は存在するものの、それは厳密な意味で「フレスコ画」ではないので、結果的にフレスコ画の技法史を中心に研究している私の専門範囲は「中世からルネサンス時代」に特定されることになります。

 しかし、傷んだ美術品や文化財を修復し、価値ある文化遺産を長く後世に伝えようとする時、私の頭の中には二つの相反するファクターが尽きることのない葛藤を繰り返すのです。北から南までどこもかしこも貴重な文化財で埋まっているようなイタリアでは、文化財保護がすべてに行き届くことは永遠にあり得ませんし、限られた予算が一貫した政策や理念のもとに平等に配分されるということも考えられません。それに、企業などがスポンサーとなる修復保存メセナが、一定の有名な作品に限定されてしまうのも、作品の知名度や話題性が宣伝効果を上げる役割を担うという現実からすれば、当然のことでしょう。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチらの作品は、やはり幸せ者と言うほかないと思います。それに反して、もっと重篤な状況に置かれている作品でも、なかなか治療の手をさしのべてもらえずに苦しみ続けているものも少なくありません。同様にイタリア国内でもフィレンツェやローマ、ヴェネツィアなどは文化財政策でも優遇されているように思えてなりません。もちろん、そうした都市には文化的価値の高い作品が多くあり、世界中からの観光客が引きも切らないからという理由はあるでしょうが、美術全集に掲載されるような作品が少ない都市だからといって、いつまでも後まわしにされていては加速度的に作品の命が短くなっていきます。私は壁画の調査でイタリア各地を回っていますが、ことに観光的にもマイナーな小都市では、きまって文化財保護政策の不平等さに対する愚痴を聞かされるのが常です。事実、美術品としては第一級の作品ではなくとも歴史的、資料的には大きな価値があると思われるものが何の管理もされずに放置され、余命幾ばくもない姿をさらしているのを私は南イタリアで何度も目にしています。


照明が設置された足場

祭壇画と十字架像の保護が取り除かれた主祭壇

イタリア各地の壁画の現状を知っている専門家としての私は、なかなか順番の回ってこない作品にこそ修復保存の手をさしのべるべきだとも思いましたが、日本人である私が金沢大学の組織を通して寄付者の意志をきちんと反映させて明確な成果を一定期間に出さねばならないという現実を考えた時、私はどうしてもより確実な道を選ばざるを得ませんでした。つまり、30年以上にわたって培ってきた私のイタリアでの人間関係がモノを言ってくれるところで選択しなければならないだろうと、最終的に判断したわけです。それは私が青春の11年間を暮らし、イタリア美術史を学び、大学を卒業したフィレンツェをおいて他にはないということです。「いいかげんなイタリア」を信用するかどうかなどという巷の一般論を持ち出すつもりはありません。イタリアだろうと日本だろうと、信頼できるのは私自身が個人として培った人間関係だけだろうと考えたのです。

 思えば、私はフィレンツェ大学で教鞭を執っていた「フレスコ画の発見と修復保存の父」ウーゴ・プロカッチ教授の(退官前の)最後のゼミ生としてチェンニーノ・チェンニーニの『絵画術の書』(Il Libro dell’arte, 1400年頃)を研究した唯一の日本人学生でした。また、卒業研究に際してはフィレンツェ修復研究所のウンベルト・バルディーニ所長やオルネッラ・カザッツァ女史らにもお世話になり、いつのまにかフレスコ壁画研究の道を歩くことになったという私の運命が、今回の決断を下したと言うこともできるでしょう。

 こうして私はフィレンツェのフレスコ壁画の現状を再調査し、最近50年間に本格的な修復を受けていない作品というイタリアの法律や、フレスコ画研究者としての私の専門的見解、寄付金の規模なども考慮してサンタ・クローチェ教会の大礼拝堂を飾るアーニョロ・ガッディの『聖十字架物語』にたどり着いたのでした。この検討に際しては私(よりはむしろ家内)の親友である修復士マリアローザ・ランフランキが、快く相談相手となってくれましたし、私の下した結論を聞いて、修復研究所の壁画部長であるクリスティーナ・ダンテおよび所長のクリスティーナ・アチディーニ女史も大賛成してくれたことで、修復対象作品はほぼ確定しました。この後は、当のサンタ・クローチェ教会、トスカーナ州やフィレンツェ市の文化財監督局、イタリア内務省の文化庁などの了解を得るという第二段階がありますが、この経緯については省かせてもらいます。

 さて、次には前述の「私の専門的見解」という表現を、もっと具体的に説明することにしましょう。かつて、私は鹿島美術財団の研究助成(1990年度)を得て、ジョットによって制作されたパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂壁画連作(1305年頃)の技法調査を、自分で組み上げた足場の上で実施するという機会に恵まれました。それは最初の「完璧なフレスコ壁画」の傑作であると同時に、その後のフレスコ画の展開を研究する上では技法的にも基準となる作品ですが、今回のアーニョロ・ガッディの壁画調査はジョットの次世代を解明するという意味で大きな期待が寄せられています。


エレベーター

高さ26mの大礼拝堂最上部にて

 つまり、この壁画がジョットによって完成された高度なフレスコ技法を継承する作品であり、壁画の技法研究の対象として第一級の作品であること。つまり、作者のアーニョロ・ガッディ(Agnolo Gaddi:フィレンツェの画家1333?-96)は、ジョットの弟子として24年間も仕事をしたタッデーオ・ガッディの息子であることに注目したいのです。そのアーニョロのもとで12年間も弟子として仕事をしたチェンニーノ・チェンニーニは、1400年頃に美術史上最初の口語体による絵画技法書(Il Libro dell'Arte)を著していますが、それはイタリアの中世からルネサンスにかけての絵画技法を研究する者にとって、いわばバイブルとも呼べる一書にほかなりません。不幸にして著者であるチェンニーノ・チェンニーニの壁画がすべて失われてしまった現在、ジョットの直系を誇る彼の記述を実際の壁画で検証するには、彼の師であったアーニョロ・ガッディの壁画をおいて他にはないのです。

 さらに、サンタ・クローチェ教会後陣(主祭壇背後の大礼拝堂)に描かれたアーニョロ・ガッディの『聖十字架物語』は、数年前に修復作業が完了した、今もっとも注目を集めているルネサンスの画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca:1415/20-92)がアレッツォで制作した同主題の壁画(1452-66年頃)に先行する作品ですから、両者を図像学的側面だけでなく、技法的な面から比較してみることは研究者のみならず、誰にとっても大きな関心事なのです。なお、壁画の主題である「聖十字架物語」は、キリストの架けられた聖十字架(サンタ・クローチェ)の木の由来に関する物語で、旧約聖書のエデンの園から始まり、7世紀の東ローマ皇帝ヘラクリウスの時代に及ぶ壮大な歴史的長編物語です。13世紀にジェノヴァの大司教であったヤコブス・デ・ウォラギネによって集大成された『黄金伝説』(Legenda Aurea)中に収められている物語ですが、その内容については別の機会に詳しく説明しましょう。

 また、視点を変えれば、アーニョロ・ガッディの絵画は物語的叙述に優れているため、『聖十字架物語』の壁画連作は風俗史解読の資料としても高い価値があり、壁画に描かれている多様なモチーフを考証すれば、14世紀末のフィレンツェ社会がずっと身近でリアルなものとなります。ちなみに、この壁画がサンタ・クローチェ教会内に描かれた1380年代は、日本では金閣寺に象徴される足利義満の北山文化の時代です。

 このようにアーニョロ・ガッディの壁画連作『聖十字架物語』はルネサンスの幕開けを告げる14世紀末(1380頃)の重要な作品であるにもかかわらず、そのスケールがあまりに大きいために、あるいは世界の関心が華やかで知名度の高い15世紀ルネサンスに大きく傾いていたために、これまで近代的修復の手が一度も加えられることがありませんでした。近代的修復の手が入っていないということは、近代的科学技術を導入した本格的な調査が行われていないということで、今回の修復作業によって解明されるであろう礼拝堂の建築構造、壁画技法、漆喰や顔料などの組成、壁画と同一工房の制作と考えられるステンドグラスなどに関する科学的な調査結果に大きな期待が寄せられるわけです。

現地レポート (2005年7月15日)


サンタ・マリア・ノヴェッラ教会前を出発するパレードの先頭

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会前を出発するパレードの音楽隊

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会前を出発する白チームの選手たち

共和国広場に入るパレード

シニョリーア広場での旗投げの妙技

サンタ・クローチェ教会前の広場に集合したパレードの一団と応援団

救護班も入り交じっての緑チーム対白チームの競技

 6月23日には、9層からなる足場のすべての階に照明が設置され、均等な明るさで全壁面が見られるようになったばかりか、教会堂内から足場を見上げても、イルミネーションで飾られた遊園地を思わせるような一種のファンタジーが備わりました。教会側の意向もそうですが、修復研究所の最近のモットーが「開かれた修復現場」であり、これは大礼拝堂を秘密のベールの背後に5年間も隠してしまうのではなく、教会を訪れる者たちが「考古学の発掘現場」を前にするような興味深い状況を設定したと言えます。つまり、「何だ、また修復中か。せっかくフィレンツェまで来たのに、何も見えないじゃないか。」という教会の見学者に、「いいえ、あなたは歴史的修復事業を目にする好機にここを訪れたのです。」と思ってほしいわけです。ですから、私たちは鉄パイプで組み上げた足場をシートで覆い隠してしまうことはやめました。下から見上げれば、修復現場や壁画の一部を垣間見ることができるようにすると同時に、金網や透明のアクリル板などを利用して安全対策を講じたのです。鉄パイプの高層建築に思える足場の床面にはモケットが敷かれ、人や機材を最上階まで運ぶエレベーター、照明設備や電気配線、太い換気用パイプの配管、上下水道設備(もちろん、薬品を含んだ水は貯水槽に保存します)、作業テーブルなど、修復士や私たち研究者が5年間も生活する快適で安全な空間がしだいに整いつつあります。

 ところで、サンタ・クローチェ教会前の広場には数日前からサン・ジョヴァンニ(フィレンツェの守護聖人である洗礼者ヨハネ)の祝日(6月24日)に行われる伝統的サッカー競技の準備のため、石畳の広場には大量の砂が運び込まれ、周囲には仮設の観客席が設けられるなど、広場全体が工事現場のようなありさまでした。「カルチョ・イン・コストゥーメ」と呼ばれる競技は、フィレンツェの4地区を代表するチームのトーナメントで、24日はサンタ・マリア・ノヴェッラ地区(赤)対サンタ・クローチェ地区(青)の試合が行われ、26日にはサン・ジョヴァンニ地区(緑)対サント・スピリト地区(白)の試合が行われました。7月3日の決勝戦はサンタ・クローチェ地区(青)対サン・ジョヴァンニ地区(緑)が激しくぶつかり合い、結果は3-0 でサンタ・クローチェ地区(青)の圧勝でした。

 26日に観客席に陣取った私は、30−20年前の留学時代も(そして偶然なことに)現在もサント・スピリト地区に暮らしている者として、選手を個人的に知っているわけではありませんが、やはり白チームを応援せずにはいられませんでした。残念ながら、私たちの狂気に満ちた応援にもかかわらず、サン・ジョヴァンニ地区(緑)に完敗してしまいましたが、最終的には現在私の関わっているサンタ・クローチェ教会の青チームが(実は常勝チームなのですが)圧勝してくれたので、今年はこれでよしとして納得することにしました。この競技がサッカーのルーツであるかどうかという学術的議論はスポーツ史の専門家に任せるとしても、観客席から見ている人間にとっては、とても球技には見えません。各チーム27人で構成される屈強な男たちが、古代ローマのコロッセウムで繰り広げられたグラディエーターの死闘を思い出させるように激しくぶつかり合い、競技中もケガで動けぬ選手を運ぶタンカが右往左往ですから、勝敗を決める球の行方を目で追うことは観客席の上からでも不可能です。ですから、競技場の選手たちにはなおさらわかるわけがありません。選手たちは、(少なくとも観客席からは)球の行方よりも自分の前にいる男に体当たりし、ねじ伏せることだけを目的にしているようです。この血湧き肉躍る伝統的競技に、プレー開始からずっと総立ちの客席は限りなくエスカレートしていきます。可愛らしい、あるいは美しい女の子たちが(とても恥ずかしくて日本語にも訳せない)罵詈雑言を敵チームに浴びせ、声を嗄らしている姿には驚きです。彼らほど熱狂できない私などはあっけにとられて、しばし彼女たちの顔をのぞき込んでしまうくらいです。まあ、どのチームを応援していいかわからない観光客にとって楽しいのは、競技そのものよりも競技前に繰り広げられる壮大なルネサンス絵巻と呼んでもいい華麗な歴史的衣装に身を包んだ数百人のパレードでしょう。サンタ・マリア・ノヴェッラ広場から出発し、共和国広場、シニョリーア広場を抜けて、サンタ・クローチェ広場に選手ともども入場します。

 さて、修復日誌に戻りましょう。7月6日の午前中、前方に設けられていた仮主祭壇が取り払われ、祭壇画で飾られた本来の主祭壇と十字架像の保護カバーがすべて取り除かれました。足場の中に食い込んだ形ですが、とにかく、これで荘厳なミサを行う教会堂としての機能を果たせるようになったのです。この日、私をはじめ、プロジェクト初年度の修復担当主任であるマリアローザ・ランフランンキさん、マルカントーニオ司祭らが足場建設の担当者であるマルコ・パンカーニさんやラウラ・マンヌッチさんらと安全面と機能面の両方から現場で最終チェックをしました。教会には教会の、修復士には修復士の、足場の設計者には設計者の、それぞれの理想と言い分があるわけで、チェックと検討には(追加注文も含めて)予想以上に長い時間がかかりました。

 今後の主な予定ですが、7月25日には修復研究所に対して足場が建設された大礼拝堂(修復作業場)の鍵が建設業者から正式に受け渡される予定です。この日から、大礼拝堂は教会の一部でありながらも、物理的には完全に隔離され、以後5年に及ぶ壁画修復の作業現場として、全責任がフィレンツェ修復研究所の監督下に入ることになります。また、7月28日には、足場の完成と修復前の壁画の現状を報告するプレス発表を予定しており、あらためて私もこのプロジェクトの意義について、主導的立場にある金沢大学を代表して話をするつもりです。


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壁画調査中の筆者
みやした・たかはる
1949年東京都生まれ。フィレンツェ大学教育学部(美術史)卒業。ウーゴ・プロカッチ教授のもとでフレスコ画法史を学び、アレッサンドロ・パッロンキ教授およびフランコ・カルディーニ教授に師事して「15世紀フィレンツェ絵画史における三王礼拝図」を研究する。1973-84年までイタリア在住11年。現在は金沢大学教授(教育学部)。専攻はイタリアの中世・ルネサンス美術史で、13-15世紀のイタリアにおけるフレスコ技法と図像学を研究。主な著書に『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内』(全5巻 美術出版社)、『モナ・リザが微笑む―レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』(講談社)、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』(共著 白水社)、『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)、『フレスコ画のルネサンス 壁画に読むフィレンツェの美』(NHK出版)がある。
フレスコ画のルネサンス
―壁画に読むフィレンツェの美

発売日:2001年1月
定価:2,625円
発行:日本放送出版協会
内容:イタリア・ルネサンス美術史の中で、「フレスコ画法の革新性」の意味と、絵画としてフレスコ壁画の果たした役割を考える。
宮下孝晴の徹底イタリア美術案内(1)〜(5)
発売日:2000年8月
定価:各2,940円
発行:美術出版社
内容:イタリアの88都市を巡って、都市に密着した美術史を紹介する美のイタリア巡礼紀行。
フィレンツェ美術散歩
発売日:1991年1月
定価:1,575円
発行:新潮社
内容:中世ルネサンスのおもかげを色濃く残すイタリア・フィレンツェの町を、教会、美術館を中心に紹介する。教会内部の見取り図など、詳細でわかりやすい内容。