ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの町

 この3月から、私はイタリアのフィレンツェに滞在しています。文部科学省の「海外先進教育研究実践支援プログラム」によって、金沢大学から1年間の派遣が認められたわけですが、その主たる目的は、金沢大学がフィレンツェの国立修復研究所と協力して、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に描かれた『聖十字架物語』の修復研究プロジェクトに着手したため、この日伊国際協定による壁画修復プロジェクトを大学の国際貢献事業として成功に導くことにあります。

 この壁画修復プロジェクトについては昨年6月末に行われた調印式の際に広く報道されましたから、記憶に残っている読者も少なくないとは思いますが、これからは修復作業の展開につれて定期的にフィレンツェの修復現場からドキュメンタリー・レポートを送ることにします。しかし、壁画の分析調査や修復作業そのものが本格化するまでには少し時間がありますので、その間を利用して、レポートのほかにも次のような大切な内容を順に整理してみたいと思います。


サンタ・クローチェ教会外観

第1回 修復プロジェクト成立までの経緯
第2回 アーニョロ・ガッディの壁画連作
     「聖十字架物語」を修復の対象に選んだ理由
第3回 フィレンツェのサンタ・クローチェ教会
第4回 フレスコ壁画とは何か
第5回 壁画修復の方法と技術
第6回 壁画の主題「聖十字架物語」
第7回 作者アーニョロ・ガッディとその時代

 以上のことを知っていただきながら、これから5年間にわたって展開される高さ26メートルを超える大礼拝堂に描かれた壁画修復作業の経過を報告していくつもりですので、どうか私といっしょに世界遺産の修復保存プロジェクトを見守ってほしいと思います。

第1回 修復プロジェクト成立までの経緯


サンタ・クローチェ教会の大礼拝堂

大礼拝堂内に描かれたアーニョロ・ガッディの壁画連作(下の2つ)

 この国際修復プロジェクトのきっかけは、「イタリアの病んでいる壁画を救ってください」という一本の電話から始まりました。1999年の4月から6月にかけて私はNHK教育テレビ「人間講座」の講師をつとめ、すべて現地ロケで収録した『フィレンツェ・美の謎空間 フレスコ壁画への旅』という全12回の番組が放送されました。放送の反響は意外なほど大きく、多くの視聴者から「番組のおかげでフレスコ画の見方がわかりました」というようなお便りをいただいたものです。中には大学や自宅にまで電話をかけてくる人も少なくありませんでした。そうした中に、「イタリアの壁画修復と保存のために二億円の寄付をしたいので、骨を折っていただけませんか」という夢のような電話があったのです。

 とてもすぐには信じられないような話で、その後しばらくして同じ人物から誠実かつ真摯な手紙が届くまでは、(あまりに突然かつ異例な申し出だったので、失礼ながら)大して気にもとめていませんでした。やがて、私が上京の折、ご本人と会って話をうかがいましたが、まだ私には夢のような話で、念のために次回はご自宅を訪ねてご家族とも会うことにしたほどです。企業がさまざまな目的で文化財修復に乗り出すことはあっても、ふつうの一個人、いや一市民がこれだけ巨額の費用を私に任せるというのですから、彼の真意がわかってからというもの、私の肩にはズシリと重い荷がのってしまいました。

 一人の、これほどまでにイタリア美術を愛する人間の気持ちに私も誠実に応えたいと思う一方で、大学の研究者である私個人には国際間契約の経験もなく、もしイタリア側が適正な運用を怠った場合の対策もわからないわけで、しばし途方に暮れた時期もありました。

 寄付金で財団を設立するとか、文化財保存に関連した機関や企業、新聞社などに委託するとか、簡単には駐ローマ日本大使から修復を必要としている教会や修道院に直接寄付ということもできたはずです。ところが、そうした世界各地からの援助金やユネスコからの資金援助でさえ、イタリアでは明瞭に使われずに消えてしまうということが珍しくはないということを、幸か不幸かイタリアに長く暮らしていた私は知っていたのです。


2004年6月30日の調印式でプロジェクトの経緯と意義を説明する筆者(右端)

2004年6月30日の調印式で署名する林勇二郎金沢大学長(写真中央)

 結局、私は自分の在籍する金沢大学に相談することにしました。「金沢大学の人間である私に託されたことですから、金沢大学という組織全体で責任を持って寄付金とその活用を見届けることが、もっとも素直な方法であり、結論だと考えたのです。大学との折衝では林学長はじめ大学のトップは積極的に賛成してくれたものの、それが事務レベルの問題になったとき、芸術分野における大学の貢献活動というのは前例がなく、具体的にどのようにプロジェクトを展開すべきか、他の大学に問い合わせても経験がありませんでした。

 前例がないことへの挑戦は、独立行政法人化を目前にしていた国立大学にとって、いつも以上に慎重にならざるを得なかったことと思います。多くの議論と現実的方法論の模索の末、ついに金沢大学は未経験の分野に自らが第一歩を踏み出す決断をくだしました。文部科学省や文化庁に対する説明、大学としての寄付金の管理の仕方、修復作業の現場となるイタリア側との話し合いという深刻な問題を忍耐強く一つ一つクリアして、昨年6月30日の調印式を迎えることができたのです。

 実は、その前に私個人としては、イタリア壁画研究の専門家として修復対象に何を選ぶかという大きな問題が突きつけられていました。実際にどの壁画を修復するかについて、無数ともいえるイタリアの中世からルネサンスにかけての壁画から一つを選ぶことは、北から南までイタリアの壁画を知りすぎている私には大変に苦しいことでした。最近は美術史的に有名な壁画は次々に修復されて話題を呼んでいますが、それは修復をバックアップする企業メセナとしては当然のことのように有名な作品を選ぶわけです。

 有名でなくとも歴史的には重要な壁画がたくさんあり、長い歴史の中で傷みも限界に達しつつあるものも少なくありません。私は、ほんとうに悩みに悩み、迷いに迷い、サンタ・クローチェ教会後陣に描かれたアーニョロ・ガッディの「聖十字架物語」を選びましたが、私の下した決定についての理由は、もう少し詳しく次回に説明することにしましょう。

現地レポート (2005年5月31日)


ほぼ完成した足場(5月31日)

地下のクリプタ補強

 サンタ・クローチェ教会後陣(主祭壇の奥の大礼拝堂)に4月12日から開始された足場の建設は、ゆったりと仕事を進めるイタリアでは異例の早さで進展し、大礼拝堂の天井(ヴォールト)まで、あと一息のところにきました。私が毎日きまって作業現場に顔を出し、進行状況を確認して監督はじめ作業員みんなに「他の作品を傷つけないように気をつけてください。慎重に、でも予定に遅れないようにがんばってください。この現場に世界の注目が集まっていますよ。」などと声をかけながら、実はイタリア人の尻をたたいたからだと、周囲はそう噂しています。

 つまり、たったの1ヶ月半で床面から高さ20メートルくらいのところまで8段の足場が建設されたわけです。全高は26メートルを少し超えますから、高さ20メートルのシスティーナ礼拝堂(ローマ・バチカン)よりも高いことになります。大礼拝堂の床下はクリプタと呼ばれる広い地下礼拝堂になっていますから、大礼拝堂に足場を建設する前に、まず床面をしっかりと支える必要がありました。とくに足場の中心部には修復士や機材などを上に運び上げるエレベーターを設置するので、床面の補強は重要な課題でした。したがって、50センチ四方間隔で56本の鉄パイプがエレベーターの下あたりに集中的に立てられ、大礼拝堂の床を地下から支えています。なお、この地下のクリプタには修復作業に必要な資材置き場と、男女別々の更衣所が設けられることになっています。


もとの場所に戻った
ドナテッロの「十字架像」.

 それはともかく、今日はサンタ・クローチェ教会にとっても、ちょっと大げさに言えば、世界中の美術愛好家にとっても大変なできごとがありました。ドナテッロの「十字架像」が修復を終えて教会に戻ってきたのです。この数年間というもの、多くの美術品を抱えるサンタ・クローチェ教会でも最重要作品であるドナテッロの「十字架像」が礼拝堂(Cappella Bardi di Vernio)から姿を消し、私たちがどれほど寂しい思いをしたことか。木彫(梨の木)の「十字架像」はメディチ家創設の歴史をもつフィレンツェの国立修復研究所が担当したもので、さる5月23日に教会内に運び込まれました。そのときにも私は立ち会いましたが、まず、大きな木の箱に収められたキリスト像が、そして次には、何重にも梱包された十字架が教会正面入り口から数人の男たちによって担ぎ込まれました。その光景を目にしながら、私はゴルゴタの丘に向かう「キリストの道行き」の場面を思い浮かべていました。

 ドナテッロの「十字架像」は教会堂内の環境(温度や湿度など)に徐々になじむべく、その日から1週間後に木箱から出され、もとあった礼拝堂に用意された十字架の上で再び磔になりました。「健康を取り戻した」という言い方は磔刑像のキリストには妙ですが、作品としては完全な健康体として再び私たちの心をふるわせてくれるにちがいありません。大礼拝堂の足場建設で教会の一部が工事現場になっていることもあり、見学者の安全確保を優先して、一般公開まではもう少し時間がかかるでしょうが、間近にドナテッロを鑑賞できる日はもうすぐです。この日、修復を担当したドイツ人修復士が一人のこって、(修復研究所を)退院してまもない「十字架像」を心配しながら最終治療を施している姿が印象的でした。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]



壁画調査中の筆者
みやした・たかはる
1949年東京都生まれ。フィレンツェ大学教育学部(美術史)卒業。ウーゴ・プロカッチ教授のもとでフレスコ画法史を学び、アレッサンドロ・パッロンキ教授およびフランコ・カルディーニ教授に師事して「15世紀フィレンツェ絵画史における三王礼拝図」を研究する。1973-84年までイタリア在住11年。現在は金沢大学教授(教育学部)。専攻はイタリアの中世・ルネサンス美術史で、13-15世紀のイタリアにおけるフレスコ技法と図像学を研究。主な著書に『宮下孝晴の徹底イタリア美術案内』(全5巻 美術出版社)、『モナ・リザが微笑む―レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』(講談社)、『ルネサンスの画家ポントルモの日記』(共著 白水社)、『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)、『フレスコ画のルネサンス 壁画に読むフィレンツェの美』(NHK出版)がある。
フレスコ画のルネサンス
―壁画に読むフィレンツェの美

発売日:2001年1月
定価:2,625円
発行:日本放送出版協会
内容:イタリア・ルネサンス美術史の中で、「フレスコ画法の革新性」の意味と、絵画としてフレスコ壁画の果たした役割を考える。
宮下孝晴の徹底イタリア美術案内(1)〜(5)
発売日:2000年8月
定価:各2,940円
発行:美術出版社
内容:イタリアの88都市を巡って、都市に密着した美術史を紹介する美のイタリア巡礼紀行。
フィレンツェ美術散歩
発売日:1991年1月
定価:1,575円
発行:新潮社
内容:中世ルネサンスのおもかげを色濃く残すイタリア・フィレンツェの町を、教会、美術館を中心に紹介する。教会内部の見取り図など、詳細でわかりやすい内容。